其の肆. 推しが【日本舞踊】の番組を作りました。~名古屋西川流って?①
こんにちは!ここからは長唄『水仙丹前』に続いて西川流四世家元がご披露してくださった初唄『~辰の春~道しるべ』の模様をお届けしてまいります!先ずは、【名古屋西川流】という流派について紐解いてみたいと思います‥😌💭
これまで、まったくと、いってよいほど知らなかった【日本舞踊】の世界。
ですが‥
其の壱. 推しが【日本舞踊】の番組を作りました。でも綴ったように、日本に脈々と受け継がれてきた文化であり、伝統芸能でもあり、好きな空気感を持つ世界。
その後、いろいろと夢中になって調べ、少しずつこの世界に近づきながら番組について書き起こしていったのがこちらの三編です。
・其の弐. 推しが【日本舞踊】の番組を作りました。~SNSで発信開始!~
・其の参. 推しが【日本舞踊】の番組を作りました。~水仙丹前ってなんだ!?①~
・其の参. 推しが【日本舞踊】の番組を作りました。~水仙丹前ってなんだ!?②~
そしていよいよここからは、西川流を代表する四人の踊り手さんで舞われた、長唄『水仙丹前』に続いて披露された、西川流四世家元・西川千雅(かずまさ)さんによる、初唄『~辰の春~道しるべ』をお届けしていきたいと思います。
と、その前に‥
ここ名古屋を本拠地に活躍される【名古屋西川流】のルーツに迫ってみたいと思います🤗
名古屋西川流 誕生前夜
そもそも、「名古屋西川流」の始まりは、今からおよそ200年前の天保12年に遡ります。
ですが、実はそれ以前から【西川流】は存在し、日本舞踊五大流派のひとつと呼ばれていました。
おまけに日舞界の中でも、ごく初期に誕生した流派だったそうです。
それが、今からおよそ300年前のこと。
そこから‥
【西川流】は、初代家元・西川仙蔵さんに縁のある、能や歌舞伎などの伝統芸能と深い関わり合いを持ちながら江戸で発展していきました。
ところが、天保年間‥
国内的には全国的な凶作による物価高騰で各地に一揆が起こり、国外からはアヘン戦争などの影響を受け、徳川幕府が危機を迎えます。
その危機を脱するため、時の老中・水野忠邦が思い切った改革に乗り出します。
俗に言う、「天保の改革」。
質素倹約を謳ったその政治改革は、当然、日本舞踊などの伝統芸能にも影を落としました。
名古屋西川流初世家元・西川 鯉三郎
当時、【西川流】は四世の時代。
その弟子の中に、西川仁蔵さんという優れた方がいて、将来の見えない江戸に見切りをつけ、名古屋へわたったそうです。仁蔵さんは江戸の【西川流】とは袂を分かち、別の流派を立ち上げます。
それが『名古屋西川流』。
名古屋西川流は、ここからはじまりました。
その後仁蔵さんは名古屋西川流初世家元として、西川鯉三郎と名乗り、新たな舞踊人生を歩み始めます。
鯉三郎さんは、大胆に能や狂言の長所を取り入れ、宗家の西川流ともまた違う、独特の作風を生み出していったそうです。
とくにそれまで確立されたものがなかった舞踏衣装の着付けについて書いた「舞踊百番衣装附」、日舞の振付を可視化した「妓 楽踏舞譜」を作り、後世に残した功績は大きいと言われています。
(※画像をクリックすると資料全体を閲覧できます)
やがて鯉三郎さんは名古屋の劇場の振付を一手に引き受け、明治時代の彼をはじめとする芸能者たちの活躍が「芸どころ名古屋」の礎となったようです。
ところが、明治33年に、鯉三郎さんが亡くなった後、後継者がいなくなり、長らく家元不在の日々が続きます。
その後、鯉三郎さんの優れたお弟子さんの一人・西川石松さんのお孫さん・司津さんが歌舞伎役者の尾上しげるさん(西川茂さん)と結ばれます。
しげるさんは六代目尾上菊五郎さんの門弟で、大部屋の子役からスタートしたにも関わらず、菊五郎さんにかわれ、名作「鏡獅子」の胡蝶役に抜てきされたほどの実力を持った方。(部屋子でこの役を演じられた方はしげるさんがはじめてだったそう‥)
そこから活躍の場も広がり、しげるさんは、昭和16年に、名古屋西川流二世・二代目 西川鯉三郎を襲名、家元となられました。
と、まぁ‥
文字にすれば簡単なことのように思えますが、長らく家元不在だった名古屋西川流も、二代目鯉三郎さんも、大変なご苦労を経た門出だったようです。
ですが、ここからまた‥
名古屋西川流の第二期黄金時代が始まります。
※②へ続く
📚参考文献・関連情報
■西川流公式サイト
■西川流 家元補佐・西川陽子公式サイト
■西川鯉三郎Wikipedia
■二世・西川鯉三郎Wikipedia
■天保の改革Wikipedia
■舞踏学会資料「舞踊譜の理念と実際 西川箕乃助」